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いつでも、ひなたぼっこ アマチュア小説家、冬垣ひなたのブログ。読んだ本や、行ったイベントの感想などを書いています。

稀望-3-

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~初めに~
こちらは拙作『優鬱』、『曖昧』に続く完結編になります。
(第3話完結 3591字  『稀望』総文字数10727字) 




「ありがとうございました」、店員のおおらかな声で貴子は靴屋を後にした。
新しいパンプスを、自分で買った。
貴子は紙袋をそっと大事に抱えながら、大通りを歩いた。街路樹がそろそろ色づき始めている、貴子は冬物の衣替えをそろそろ始めようかと考えた。
思えば、自分で自分を追い詰めすぎていた。三河は同じように痛みを感じていたのに、進んで私を選んでくれたのに……私にはそれが解らなかった。謝っても謝っても、あの人への罪は消えるはずがないけれど……。
母に頼り、三河に頼り、そして久瀬に頼り……。気が付けば周りの人間を傷つけていた。誰とも向き合うことが出来なかった。
しかし、最近の三河は変わろうと努力していて、その思いは貴子にも強く伝わっている。夫を裏切った自分が恥ずかしく、また人に甘えてしまう弱さが悔しく思われた。それが、友人としての久瀬を失う事になってしまったのである。
変わらなくては。
貴子は雲一つなく、高い青空を見上げた。
過去に縛られていては駄目。
前方から、小さな子供が小走りにかけてくる。ああ、なんて可愛らしい。自分には許されなかった未来を、そっと振りほどき、諦めて、貴子はパンプスの入った箱を抱きしめる。
そう、これでいい。
ないものねだりはもうよそう。
できればまた仕事を始められないかしら。あの人は、私が外で働くことを嫌がるかもしれないけれど……。
近くの本屋に立ち寄ったら、三河の書いた新刊が平積みされていて、貴子が少し立ち止まって見ていたら、大学生くらいの若者が手に取って、レジに行く。勿論知らない人間だ。
正直、貴子は三河の書く小説は苦手だった。しかし、こうして本が出ると、妻の自分にも解釈しがたい三河という男を、好ましいと感じる人間が大勢いると分かって、何となくほっとする。あの人は孤独じゃないんだと。
安心して貴子は本屋を出る。今すぐ手に取って読みたい所だったが、いつも新刊は三河がプレゼントしてくれるので、それまでは見ないつもりだった。
あの話を書いていたのは長野にいる頃だったろうか、あれは夏の頃だった。星が綺麗で、あの人は一晩中美しい夜空を眺めていた。ロマンチストな所もあるけれど、一体どんな話を書いたのだろう?貴子には想像もつかなかった。





食べきれなかったお祝いのケーキを冷蔵庫にしまい、お風呂に入り、寝る用意を済ますと、貴子はテーブルの上に置かれた三河の本を持って二階の寝室に向かった。三河の仕事の関係もあって、いつも夫婦は別の部屋に眠っている。
静かな夜だった。ベッドに身を横たえると、テーブルランプを灯し、貴子は隣室の三河を想う。彼はすでに次の仕事に取り掛かっていて、多分今日も真夜中まで起きているのだろう。
タイトルは『クローバー』、内容は想像できないが、一晩で読めそうにないので、今日はきりのいい所で終わろう。そう思い、貴子は本を開く。
帯の煽り文句からすると、主人公の女性は教師のようだ。
しかし、5ページほど読み進んだ時、貴子は本を落としそうになった。
冒頭から胸のむかつくような卑劣漢のモンスターペアレンツが登場し、非常に腹が立ったのだが、その男の名が……。
『鷹丘力斗という男は、ずいぶん昔に人間をやめていた。立派な親のふりをするのも、なりを潜めるために違いない』
何故……?
貴子はショックのあまり声が出なかった。
忘れた事はない。この男の名前を見るにつけ、怨恨という以上の漆黒の感情が胸を締め付ける。力づくで征服され打ちのめされた過去の自分と、暴力の影に怯える今の自分が重なり、上辺だけの幸福すら崩れ落ちるような恐怖が襲った。
貴子は動悸を鎮めながら、次々とページをめくった。
辛い。
怖い。
苦しい。
そんな貴子の気持ちに、主人公はまるで見てきたかのように同調する。
怒り。
悲しみ。
諦め。
いつしか、貴子の心は物語の中に溶け込んでいた。
貴子と違い、主人公は孤立無援だった。戦場の荒野にいるような都会のサバイバル。物語の鷹丘は主人公を執拗に付け狙い、追い詰めていく。
しかし、主人公はその危機をタフに切り抜けてゆく。時に傷つきはするけども、彼女はありのままに生きる事をやめなかった。
そして最後の対決。
貴子は心配したが、主人公の機転で、鷹丘はついに鉄塔の上から落ち絶命したのである。主人公の素顔に美しい朝焼けが差す。悪夢の夜が明けたのだ。
貴子は長い間もがいて抜け出せなかった茨の道の先に、光が見えたような気がした。

最後のページに栞が挟まっていた。
四葉のクローバーを押し花にした、小さな栞。
裏には三河の文字で、こう書かれていた。
『君の幸せをいつでも願っている』

夫の事が理解できない、もしかして一生分からないのではないかという不安はある、ただ三河は自分の気持ちを分かってくれているのだ。それだけで、胸が熱くなった。
……気が付くと、時計は真夜中を過ぎていた。
貴子はガウンを羽織って寝床を抜け出すと、隣の三河の部屋の扉を押す。
彼は机に向かっていて、パソコンを開いているようだった。キーボードを叩く音が止まり、三河が振り返る。
「あなた……」
「読んでくれたのかい」
貴子は頷く。多分、泣いていた。言いたい思いは言葉にならず、湧き出ては涙となって流れてゆく。
「これからは、おれが君を守るから」
三河の指が、髪に、頬に触れ、貴子は崩れるようにその胸に抱かれた。

もう怖くない、前を向いて歩ける。
真っ直ぐ、自分の道を。

次の日、貴子はその足で真っ直ぐ美容室へ向かった。買ったばかりのパンプスが、貴子を勇気づける。
いつもの美容師は、「いいんですか?」という表情をしていたが、貴子は促した。
「髪を切りたいんです」
過去を拭い落とすように、貴子の長かった髪が肩のあたりで揃えられる。
心が軽くなる。
大丈夫、私は変われる。
貴子は、生まれ変わっていく鏡の中の自分に微笑んだ。





三河が久瀬の店を訪れたのは、閉店前の夜更けの事だった。客の居ない店内で、満面の笑みを浮かべ席について煙草を吸う三河に、久瀬の表情が翳る。色々と聞きたいことがあった。
「本を読んだ。あれはどういう事なんだ?」
「何がさ」
「何故、鷹丘の名が書いてあるんだ!」
「あれか?」
三河はクスクスと笑った。
「知ってるんだな。貴子から聞いた?」
「ああ……」
「居所はずいぶん昔に突き止めていた。どうしてやろうかと思って。悪行を罵った手紙に、あの本を添えて送りつけてやった」
そのために、おれ自身が社会的に有名になるのに随分時間がかかったけどな、三河は遠い目をして煙を吐いた。
「これであいつの名前は世間に知れ渡った。公表はしないよ。でも、あいつはじわじわと苦しむべきなんだ。真綿で首を絞めるように、一生、な」
久瀬は釈然としなかった。鷹丘は……自業自得だと思う。しかし、三河が人を恨み憎み、それだけに一生を終えるのが、正しい事のようにはとても思えなかったのだ。
「クローバーの花言葉を知っているか?」
「いや……」
「『私を思って』『幸運』『約束』……」
三河は、身を乗り出して囁いた。
「それから、『復讐』」
三河の思考はどこかしら狂っている。そのスイッチを入れてしまったのは紛れもなく俺だった。そのために人を殺め、人を陥れ、罪の意識もなく……。
30年近く前から……久瀬は、言いたかったことをようやく口にした。
「三河……俺は、お前のそういう所が嫌なんだ」
「知ってるよ」
三河は、手持ち無沙汰に水の入ったグラスを傾けた。
「おれは、お前のそういう所が好きだから」
久瀬は黙り込んた。
それから、店の奥に引っ込み、小さなワインセラーから瓶を取り出す。店で一番美味いワインだ。
一滴も飲まないだろう三河のグラスに、ワインを注ぐと、久瀬は彼の前に差し出した。
「俺はお前の言いなりじゃない。それは分かっているだろう?」
三河の、少し考える仕草は少年の頃に戻ったようだった。
「……分かったよ」
彼はグラスを取った。光の中、赤が揺れる。
「共犯ということにしようか」
三河は一息で、ワインを飲みほした。久瀬は、自分のグラスにもワインを注ぐ。
お互いの、これからの人生のための、祝杯だった。


ともに行こう。
どこまでも、どこまでも。


二人の男の暗く澱んだ人生が、静かに時の河を流れてゆく。恩讐の青白い炎が無数に燃えている。深い水底で、強く輝く。それは弔いの火か、空から落ちた星か。
しかし、罪を重ねる男たちの手には、もう掴むことのできない光なのだった。
その河のほとりに、白い女が立っている。
白詰草の花のように、楚々として傷一つなく、女は漆黒の空を見上げている。
昔、女は屍のようであった。
今は、自分の道を生きている。
その道と交差しながら、男たちも生きてゆく。

久瀬は、閉店のため店の外に出た。
空は星が見えない。
あの日の澱んだ泥よりも、空は暗い黒に塗りつぶされていたが、頭の中から酔いの霞が消え、身が透き通るような寒さに、久瀬は心地よささえ感じたのだった。

≪完≫


by h-fuyugaki | 2017-01-01 23:13 | 時空モノガタリ作品